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自由なき人生など、惨めなものだ - Andrew Hamilton

正直・素直な人間であることは価値のないことなのか

f:id:yRy:20170123204830p:plainphoto credit: Wasfi Akab Perugia in the Haze via photopin (license)


 
要領よく生きている人からすると、真っすぐな人は傷つきながらも価値のないものを大切に抱きしめているように見える。真っすぐな人自身、なぜそんなもののために、自分がそこまでしているのか分からなくなる。

 

正直かつ素直であることは間違っていることなのだろうか

 

かつて、愚鈍かつ真っすぐな生き方を、

己の誇りとしていた私がはっきりと回答しよう。
 

 
損してばかりの正直さ、素直さを持ち続けることは愚かですらある。あなたが信じている誠実さは、他人を傷つけるだけでなく、他人の邪悪な側面を呼び覚ますことだってある。

 

損する正直者は「良い人である自分は最後には報われる」と妄信し、現実から逃避しているような者だ。だから、良かれと思って行ったこと全てが空回りし、馬鹿だなぁと笑われ、罪を擦り付けられ、お前のせいだと叩かれ、周囲から人がいなくなっていく。

 

あなたの心をボロボロにするような正直さ、素直さは邪教だ。認めたくないだけで、分かっているはずだ。

この宗教があなたに見せる美麗すぎる理想は、あなたが支払った苦しみに対してわずかな見返りしか与えない。周囲もあなたも幸せになれる道を、あなたの目から覆い隠してしまう。その邪教は、人間という生き物や世界の様相をかつてなく汚れたものに映し出し、アイデンティティや生きる活力を失わせる。

 

 

正直、素直なだけの人をやめよう


あなたの心が蝕まれる前に、「正直さ」「素直さ」と決別しよう。

 
ただし、誤解してはならない。私が言っているのは、正直・素直なだけの人をやめろ、という意味である。自分の不器用さや現実から逃げるためだけに、誠実でいようとするなということである。
 

この腐った世の中、誠実であろうとする人は貴重である。そんな稀有な人だからこそ、伝えたい。真っすぐな者こそ、優雅さをまとわなければならない。誠実であるだけではいけない。誠実な者が唾棄している「打算」というものを身に着けならなければいけない。打算的かつ誠実な者になれ、それはつまり、あなたの正直さ、素直さを利用する人を減らし、あなたの正直さ、素直さのおかげで救われる人を増やせ、ということだ。優雅さのある誠実な者こそ、この糞みたいな時代に必要とされている救世主だ。

 

 

では、誠実さと優雅さが融合された状態とはどのような状態だろうか。

 

チベットの伝統では、スノーライオンに例えられる。

次のシーンを強くイメージし、今後のセルフイメージにしてほしい。

 

空は明るく澄み渡り、
山麓(さんろく)と森林に降り積もった雪はさわやかに光を放っている。
今という瞬間は冷気となって常に空気中に漂い、
肺の中に流れ込み、五感を鋭く研ぎ澄ます。
ライオンの瞳は、
「自然」と「ありのままの自分」が一体となっている喜びに輝いている。
巨石から巨石へと飛び移るその動きには
自然な興奮と活力がみなぎっている。

 

誠実であろうとする者は、なぜ良い人間になろうとしているのにこんな目に合わなければならないの?という憤りを胸に蓄積している。ゆえに表情には闊達さがなく、この人のそばにいると自分まで不幸になりそうという、べっとりまとわりつくような居心地の悪さを感じさせる。

 

優雅な者は、現実世界の言葉に耳を傾け、その時と状況を認識している。環境とシンクロしているがゆえに、目の前で起こっている現実と関係性を失うことがない。

優雅な者は自分自身を深刻に受け止めることがない。彼らから感じられる安心感と居心地の良さは、ユーモアに満ちている。周囲は、彼らが展開する状況や空間に魅了され、喜びを感じる。

優雅な者は、社内政治によって心を乱されたりはしない。政治的なことを、ある種のゆがみとしてみるのではなく、基本的に上品な作法として経験する。

 

 

優雅さを身に着けるために

 

 
正直さ、素直さで損をする生き方を手放すために、まず最初にやらなければいけないことがある。

気取らずに無防備さを出すことだ。努めてドライであろうとする姿勢を放棄することだ。誠実であろうとする者は、第一印象が冷たい人が多い。傷を負った心優しい獣なのだ。傷つくことを恐れてはいけない。

批判や非難、汚い人間関係の渦中に飛び込み、現実と接点を持つのだ。

現実との接点を持つ、これはどういうことだろうか。清い人であろうとすることで直視しなかった自分のダメなところ、人間という生き物の汚さと対峙するということである。
 
現実と接点を持てば、真っすぐであろうとするあまり、見えなくなっていた本当の現実の姿がゆっくり明らかになってくる。

 

人は誰か一人を攻撃することで集団を維持していること、女は徹底的に駆け引きをして心を揺さぶらないと落とせないこと、仕事ができるできないよりも人間関係で仕事内容や役職が決まっていくこと、etc

 

現実がわかってくると、どう立ち回らなければいけないのかも明らかになってくる。起こすべきアクションが明らかになってくる。
 
そのアクションのなかには、これまで軽蔑していたもの、嫌悪していたものもあるだあろう。それでも、君はそのアクションを起こさなければならない。世界の汚い部分を腹の中におさめることを己に許すということ、それが柔軟になるということであり、優雅な生き方なのだ。

 

あなたを縛り付けていた「真っすぐ生きる理由」を涙とともに捨て、現実を生きよう。

 

 

最後に

 

より良い人間であろうとしているのに、心の傷ばかり増えていく者へ

 

あなたは強い。

 

周囲にこびず、
損得に振り回されず、
信念に忠実な人間だ。

 

しかし悲しいかな、あなたがたどり着けると思っている理想は蜃気楼だ。

あなたボロボロになってまで守り通そうとしているものは、この世に存在しない。
 
不器用な自分を終わらせよう。

濁世を己の腹に収められるようになったとき、あなたは人を笑顔にさせ、あなたの誠実さは癒しと希望の象徴として周囲に受け入れられるようになる。必ず。


 

正直な人間は神の創造した最も気高い作品である。

ポープ 「人間論」