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自由なき人生など、惨めなものだ - Andrew Hamilton

モラルを欠いた障害者に周囲はもっとキレていい; 障害者にこそ読んでほしい

f:id:yRy:20160422184248j:plainphoto credit: 1284 sn7 via photopin (license)

世間一般的に、障害者はピュアだと思われている。障害を題材にしたドラマに登場する障害者のおおかたが天使のようなキャラクターだ。

なぜだろうか。

おそらく、障害者は苦労している、傷ついていると認識されているからだろう。確かに多少の苦労はあるが、少なくとも天使ではない。

世間は障害者を美化しすぎている。
世間は障害者に優しすぎる。 

障害者が自身の苦労、悲劇を語る一方で、決して語らないことを話そう。

知っているだろうが、障害者は国からお金をもらっている。障害等級1~3級の人は、毎月6~15万円、国からの金銭的援助を受けられる。6級までの人は障害者枠採用として、仕事を斡旋してもらえ、低学歴でも大手企業で働くことができる。さらには国民年金免除ときている。*1

太古の時代なら、障害者は生まれた時点で、間引きされている。障害者というだけで、生きることすら許されなかった。

このことを考えると、障碍者手当を与え、仕事を与え、法律まで作った現在の社会は障害者に十分すぎるくらい配慮している。

国、社会からの援助を受け取るな、と主張するわけではない。いま受けられる援助は、先人の並ならぬ努力あってのものだ。人はみな障害者になる可能性がある。セーフティネットとしてこの制度は大変ありがたいものであり、ハンディを持つ者は、サービスを受ける権利がある。

この制度により、社会に守られた障害者が「社会に恩返しするべく頑張らなければ」と考えるようになれば素晴らしいことだ。しかし、悲しいことに、障害者の大半は感謝するどころが「なぜ感謝しなければいけないのか」と主張している。それは本記事のコメント欄からも明らかである。

人間、欲深い生き物である。

社会への要求がどんどん過激になっている。これと反比例し、障害者の美徳が失われつつある。仕事を大切にしなくなり、横暴なふるまいをする障害者が増えた。障害者のモラルが崩壊しつつある。明治、大正時代の障害者は働き者が多かったと聞く。仕事を得にくく、社会からのフォローも無い時代だったからこそ、仕事を大切にする障害者が多かったのだろう。

社会啓蒙活動している障害者が唱える「差別のない社会」の中身は、「障害者が普通の人よりも大切に扱われる社会」である。*2
なかには有意義な活動もある。しかし、ほとんどは行き過ぎ感のある活動だ。特別支援学校の教員に、特別支援学校教諭免許の取得を義務付けるよう主張している人を見て、私は唖然とした。彼らは特別支援学校で働く教員の数が減ってもよいのだろうか。ただでさえ教員不足が叫ばれているのに。

 

障害者は少数派である。そして、弱い存在である。しかし、弱いものほど強いのが今の時代だ。障害者は弱い立場かつ少数派として生まれた悲劇に酔いしれ、世間に自分の苦労を強く訴える。そして、障害者は、障害者同士でつるむ。彼らは、お互いに傷を舐めあい、悲劇的な立場であることへの確証を深める。悲劇に酔いしれるのは結構だが、酔いしれるあまり「自分たちは社会の不平等を許す側である」という考えに強く固執するようになってしまった。まさか自分の人間的な欠点が、周囲に許されてきたとは思わない。

障害者として生きることは大変なことだ。その苦労は当事者にしかわからない。だからこそ、温かい援助を受けられているありがたみを噛みしめることを忘れてはならない、と私は思うのだ。

障害者への理解を深めようとする世間の潮流が、障害者を勘違いさせてしまった。聴覚障害者が要約筆記ボランティアの人に対して「講演のプレゼンターが話したことを要約するのではなく、すべて書いてほしい」「字が汚い」というクレームをつけることが増えたと聞いた。なぜ「ありがとうございます」の一言が言えないのだろう。

障害者なら、お礼を言わなくてもいいのだろうか。
障害者なら、約束を破ってもよいのだろうか。
障害者なら、相手を傷つけるようなことを言ってもよいのだろうか。

睡眠障害、発達障害の人なら、寝坊やケアレスミスもやむを得ないだろうが、目、手足の不自由な人が寝坊やケアレスミスするならば、それは障害とは関係ない。聴覚障害者のメール作成能力が低いならば、業務能力を欠いていると評価し、給与に反映するべきだ。なぜなら、メール作成能力は改善できるからだ。

いまの時代の障害者は、適切な注意をも障害者差別だと捉える節がある。振舞いを注意されると、障害者は「アイデンティティを否定された」と勘違いする。障害者に、注意することすらままならない。 

一部の勘違いした障害者は、健常者も自分と同じ人間である、ということに気づいていない。「障害者は人間扱いされていない」と考えるあまり、勘違いした障害者は、健常者を尊重する気持ちを失っている。これは障害者による健常者差別だ。フェアじゃない。

そして、いまの社会は、障害者の勘違いを正すための行為すら抑制する力が働いている気がしてならない。周囲にいる人は、障害者の目に余る振舞いにはキレていい。「障害者だからって、何でも許されると思うなよ」ここまで言っていい。実際、それは正しいのだから。

障害内容を批判しているのではなく、障害者であることに甘えているその性根にキレているならば、それは正当な怒りだ。「健聴者も障害者も同じ人間である」ことを障害者に気付かせる行為は障害者差別ではない。*3

障害者は、自分のことを特別な何かと勘違いする程度には黒い面を持っている。社会が平等を重んじるのであれば、障害に注意することが憚れるような空気はあってはならない。

そして、モラルを欠いた一部の障害者は、相手に配慮してもらっていること、つまり相手に労力を使わせてしまっている事実を受け止めたうえで、健常者と接していく必要があるのではないか。配慮を受け取るだけではなく、持ちつ持たれつつの精神で、自分にできることから周囲に貢献していくことで、社会も一層好意的に、我々障害者の人権を尊重してくれるようになる。

障害者の人権には少なくないコストがかかっている。
コストを支払っている健常者はモラルを欠いた障害者に、キレていい。

 

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*1:等級7級以上の障害者は、障害者手帳を手に入れられない。また、国からのサポート、周囲の理解をほとんど得られず、同じ障害者からも、あなたの障害は軽度だから、と仲間に入れてもらえない。私から見ても大変だろうと感じる

*2:障害等級が重くなるほど、活動家が増えるのは、障害が重いほど、アイデンティティと障害内容の結びつきが強くなるからだろう。

*3:差別のない社会が実現した場合、障害者年金や、障害者枠採用制度はなくなるだろう。バリアフリーを徹底しているディズニーランドは入園料に障害者割引が無いことで有名だ。もっとも、差別のない社会が実現した場合、一番困るのは障害者自身な気がしないでもない。